阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

青池 憲司 監督作品 映画『宮城からの報告—こども・学校・地域』製作委員会

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青池憲司監督インタビュー

Interview : Part 1

2011年7月も半ばを過ぎた頃、石巻市から内陸におよそ30キロほど離れた大郷町に拠点を設けている青池組を訪問しました。石巻でロケを開始しておよそ1ヶ月半が、そして小学校内に入ってから3週間が経った時でした。
ロケ隊の取材・撮影に密着し、壮絶な被災地である石巻の現場で、いかにしてまちや学校や人の動きを記録しようとしているのか。その匂いや空気を少しでも傍らで感じたいと考えました。
そうした石巻での日々の最後、これまで『撮影報告』などでは語られていなかった点を中心に、この映画を撮影するきっかけや撮影取材の様子、子どもたちや地域のことなど撮影の近況を青池監督に伺いました。

きっかけは、20年前の映画上映運動から繋がったもの。

門脇町の津波被災地にて(宮城県石巻市・門脇地区 2011年7月21日)
門脇町の津波被災地にて。(宮城県石巻市 2011年7月21日) [拡大]

——今回の映画撮影は、宮城在住の知人からの誘いがきっかけだそうですね。そのみなさんが映画製作委員会を組織し、青池組の撮影をいろいろな面でバックアップされていると。そんなみなさんとは、そもそもどのようなお知り合いだったのでしょうか?

20年前に発表した『ベンポスタ・子ども共和国』(1990年)[*]という映画の宮城全県下の上映運動を担ってくれたのが、今回の映画製作委員会の方々や佐藤進さん(映画製作委員会事務局長)たちだったということ。それ以降は、特に濃密に付き合ってたわけでもないのだけれども、ずっと関係は続いていた。『ベンポスタ〜』つながりと言えば、阪神・淡路大震災の時に「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』」(1995〜1999年)[*]を撮影した野田北部[*]の人たちとつながったのも、元々は『ベンポスタ〜』の上映運動だった。そういう意味では『ベンポスタ〜』は不思議な映画だよね。

*)ベンポスタ子ども共和国
▶1956年にスペインでシルバ神父によって創設された、子どもとおとなの協働による自治共同体。90年の青池映画により日本でも知られる。93年には同サーカス団が来日全国公演。阪神・淡路大震災の後には、長田区鷹取の復興祭に参加。

*)『ベンポスタ・子ども共和国』
▶青池憲司監督作品、1990年発表。上記の自治共同体を描いたドキュメンタリー。日本カトリック映画賞受賞。

*)「記憶のための連作『野田北部・鷹取の人びと』」第1部〜第14部
▶青池憲司監督作品、1995〜1999年発表。1995年1月17日発生の阪神・淡路大震災被災地で、人とまちの再生を5年間記録した全14部・14時間38分の長編ドキュメンタリー。山形国際ドキュメンタリー映画祭正式招待作品。[サイト]

*)野田北部地区
▶兵庫県神戸市長田区の西端でJR鷹取駅南東側一帯地域。震災で地区は全焼、全半壊、死者41人の被害。震災復興土地区画整理事業地区に指定された。なお今作の撮影にあたり、同地区まちづくり関係者からも製作支援を受けている [石巻撮影報告]。

——佐藤さんは当時なぜ『ベンポスタ・子ども共和国』の上映に関わったのでしょう?

佐藤さんはもう定年退職をしているが教育者(元学校勤務)だ。当時、周りの仲間たちが『ベンポスタ〜』を観て、これはちょっと面白いからと関わることに。公開した1990年当時は、まだ都市部でもミニシアターが多いわけではなかった。地方にはあまりミニシアターはなく、地元のいろいろな市民団体や労働組合と協力して上映するという、いわゆる昔ながらのドキュメンタリー映画の上映手法が一般的だったんだよね。『ベンポスタ〜』は、ドキュメンタリー映画が劇場公開することがあまりなかった時代に、劇場公開をした映画ではあるだけど。

自主上映運動というのは、映画を観客に見てもらおうということもメインとして大事なことだけれども、その現場で上映会を作っていくというプロセスの中では、いろいろな人と出会いや接触があるでしょう。するとその上映するまでの人との出会い、共同作業自体がまた面白いんです。その間にいろいろな人間関係が生じてくるから。だから20年前の映画が縁になって、また僕が佐藤さんたちに呼ばれて来る、みたいなことがあるわけなんです。

『野田北部〜』の場合は、1991年に『ベンポスタ〜』の映画が封切られて上映された時、関西の上映実行委員会の中にカトリック鷹取教会[*]の神田神父なんかがいて。そのあと1993年に(映画に登場した)実際の「ベンポスタ子どもサーカス」がスペインから来日して、関西で公演を行った時も、実行委員会の中心メンバーの一人に神田さんがいた。

だから1995年に阪神・淡路大震災が起こったときにも、私は当たり前のようにかつて世話になった地域だからということで、お見舞いに出掛けて行ったのだけれども(その後『野田北部〜』を撮影)。あの阪神・淡路大震災から16年がたって、『ベンポスタ〜』の上映運動からはもう20年が経っているでしょう。

だから東日本大震災の後に宮城(佐藤さん)から、「青池さん、いろいろなお付き合いがあって阪神・淡路大震災の時には神戸に行ったよね。宮城には来ないの?」って、20年昔の付き合いのメールが来た。

僕はまあ、「そうだな、これは何があっても、こっちの宮城・東北の人たちのそういう(地元の復興を記録していくという)プラン、気持ちには応えなければいけないな」と思ってやってきたのだけれども。

今はミニシアターの時代でそれはそれでやっぱり素晴らしい活動だと思うけれども、このように自主上映というのも、なかなか面白いものなんですよ。今回の製作委員会の人たちは、呼びかけ人の2、3人は『ベンポスタ〜』上映運動の時の教育関係者の方々だが、その他の人たちは今回新たにつながった方々で、特に教育関係者というわけでもなくいろいろな方がいる。

《続く》

ドキュメンタリー映画監督 青池憲司。ペーパードームたかとりの前で(神戸市長田区海運町・カトリック鷹取教会 2004年1月17日)
阪神・淡路大震災からちょうど10年目、神田神父とペーパードームたかとりの前で
(兵庫県神戸市長田区海運町・カトリック鷹取教会 2005年1月17日)

*)カトリック鷹取教会
▶神戸市長田区海運町(野田北部)。1995年当時、神田裕神父。ほとんどが全焼した教会の敷地は、ボランティア活動や青池組、ミニFMラジオ局、地域活動の拠点となった。神田神父は、東日本大震災でも宮城で支援活動を行う。

#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。