Report
2012年2月、『3月11日を生きて〜石巻・門脇小・人びと・ことば〜』の完成後の初めての上映会が東京で催されました。映画製作委員会や撮影スタッフも揃い、上映後には会場に集った人達との意見交換も行われました。
その最後の締めに挨拶をしたのが、石巻市在住で元石巻市教育委員会委員長でもある阿部和夫 映画製作委員会代表でした。被災者であり教育者であるという立場から参加するその製作への想いを採録します。
被災と復興の記録を残し、後世に伝えたい
門脇小学校校内での撮影が始まったのが、2011年6月末でした。撮影に入るそれまでの間、何をしていたのかと言うと、学校、保護者、子ども達に、映画を撮るということについてのコンセンサスを得るための期間でした。保護者の中には「(映画を)撮って欲しくない」とはっきり反対をする方もおりました。
ですけれども私は、「これは絶対に記録に残し、後世に伝えなければならない」という想いがありました。なぜそういうことを考えたのか。
実は今回の震災で宮城県全体で亡くなった方は1万人です。ところが(過去に)石巻だけで1万人が亡くなった災害がありました。天保の飢饉というものです。天保7年〜8年(1836〜1837年)にかけて1年間のスパンで確実なところで1万人が死んでいます。そしておまけに天保8年(1837年)11月にはチリ地震津波にも襲われました。ですけれども石巻で1万人も飢饉で死んでしまった後ですから、津波の記録もあまり残っていないし、こういう被害があったということも残っていません。
けれども石巻はそこから立ち上がって、あの街を作り上げてきました。私は今回も必ず復興するという気持ちでいます。その時にその担い手は、今の少年、青年、そして子ども達だと思うんです。石巻はこのようにして立ち上がってきたんだよ、という記録をどうしても残したい。そんな想いが、私がこのプロジェクトに参加させて頂く動機でした。
映画製作の中での「代表」の役割
- 証言集学校篇『3月11日を生きて〜石巻・門脇小・人びと・ことば〜』上映会
映画製作委員会東京事務局主催 (東京都三鷹市・市民協働センター 2012年2月18日)
学校に行って先生方とも話しました。学校が一番心配したのは、監督がある意図を持って、その意図に合わせた映像だけを拾っていくのではないか? という心配だったようです。 そういう意図的な映画が作られるのではないか?
ですが青池監督は、「子どもの生の姿を撮り続ける。そこから何が見えるのか、それを出していきたい」と。私もそのコンセプトに大賛成でした。
私の役割は、影でいろいろな段取りを付けることです。事務的な段取りは佐藤さん(製作委員会事務局長)が、私は学校関係にいろいろ渡りを付けたりをしました。
子ども達の心の奥底
教員には自信を持って、「私は子ども達の命を守ったんだ」ということを後世に伝えるべきだと思っています。残念ながら石巻は、ある特定の学校の事例[*]だけがニュースなどで全面に報じられ出されています。しかしその影には、先生方が命懸けで子ども達を救った事例が、門脇小だけではなく多くの学校では一杯あるのです。
1月末ころ、この映画の編集の前の段階、ラッシュというのを観た時のことです。谷川小学校[*]の教務主任だった先生が、その試写会場の世話をしてくれました。上映後、その彼に感想を訊くと、涙が止まらなかったと話してくれました。
彼も震災当時、避難をした寒空の中で「大丈夫だから頑張れ」と、子ども達を励ましては来たと。
「そう言っては来たけれども、その時の子ども達の心の奥底はもっともっと深かったというのが、当時の自分には夢中で分からなかった…。あの時の子ども達のことを思うと、画面の子どもと同時にかつての子どもを思って、自分は涙が止まらなかった。」
こう言っています。私も何度かハンカチで涙を拭いました。
この映画に取り上げられていない場面が、まだ一杯あります。ですが限られた時間の中での映像です。うまくまとめたのは、これは監督と編集の腕なのでしょう。
今後、本篇作品ができます。それを期待して頂くと同時に、この証言篇をたくさんの人たちに観て欲しいということを皆さん方、どうぞお手伝いして下さい。
《了》
*)石巻市立大川小学校(おおかわしょうがっこう)=特定の学校の事例
▶石巻市釜谷山根。津波で被災し、74人の児童が死亡・行方不明になった。飯野川第一小で間借り授業を行う。
*)石巻市立谷川小学校(やがわしょうがっこう)
▶石巻市大谷川浜字。牡鹿半島にあった過疎地の学校。教職員と児童12人は全員無事だったが、津波で校舎は全壊した。大原小で間借り授業を児童7人で行っていたが、2012年3月閉校となった。
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。