阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

青池 憲司 監督作品 映画『宮城からの報告—こども・学校・地域』製作委員会

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  4. 青池監督インタビュー 2012/4/9・その1
青池憲司監督インタビュー

Interview : Part 1

1年近くにおよんだ撮影が終盤に差し掛かった2012年4月始め、石巻の青池組を訪ねました。
すでに東日本大震災から1年が経過しています。その季節の狭間、門小では6年生が卒業して教員の移動があり、これまでに撮影を重ねた方たちとの別れがありました。一方で新1年生と新任教員を迎えます。
街では地域に密着した撮影や上映などを通じて交流を深め、あらゆる場所やお店にも精通し、知人も多くなっていました。
こうした撮影期間にも2つの作品、予告篇『わたしはここにいます』と証言集学校篇『3月11日を生きて』が生まれ、各地で上映が行われています。
青池組の宿舎内の監督部屋に青池監督を訪ね、上映した2つの作品への反応や夏完成予定の本篇の話などを伺いました。

ある地元の観客が寄せた"予告篇に想った"こと

作文の授業を撮影する青池組
作文の授業を撮影する青池組
(宮城県石巻市・門脇中学校内門脇小学校 2012年2月24日) [クリックで拡大]

——昨年10月に完成した予告篇『わたしはここにいます〜石巻・門脇小学校・夏』(29分)について伺います。
昨秋これをご覧になった門脇小学校(門小)のある保護者の方の感想文を、最近になってたまたま目にしたのですが、そこにはいくつかの疑問や意見がつづられていました。しかしそれは被災した地元の当事者としては、当然抱く疑問だろうなとも思いました。
一方で監督は以前の話の中で、この予告篇は「作品」ではなくあくまでも"予告篇"であることを強調し、だからこその誤解を招く恐れがあることも承知の上だとしていました。撮影現場を見た私には、両者の話が共に理解できるものに感じられたのですが、いかがでしょう。

その保護者の方の感想は、読んで知っている。それも一つの感想だからね。つまり表現物というのは、どういう風な感想であれ批評は出てくる。だから特にそうした個々の意見に対して、僕が意見を述べるということはない。

——その中の意見の一つに、予告篇の中では地震発生当日の津波映像が使われていないということがありました。撮影隊は当然、地震当時は現場にいなかったので映像がないのは当たり前なのですが、例えばどこかで借りてでも入れるべきではないかと。

僕は証言集学校篇『3月11日を生きて』に関して言えば、体験した人の言葉で当時の状況を再現したい、振り返りたいということがあったから、僕の立場から言えば当時のひどい状況の映像というのはいらないわけだ。例えば撮影隊がインタビューをした方自身が映像を撮っていたりした場合はまた別の話だけれど。そのようなことではなくて全く別のどこかから映像を借りてきて使うというようなことは、端から考えていない。

何より『3月11日を生きて』は、言葉でどれだけ3月11日の体験を表現できるか。つまり体験した人が、もう一回自分の言葉によって外に出すみたいなことで映画として成立させたいと考えていた。それがこちらの作り手の意図で、それに基づいてインタビューを重ねてきた。それを使って一本の作品にしたわけだ。

こちらの意図は意図としてあったが、語る人はそういう意図は別にないわけだけれど、一生懸命自分の体験を言葉にしようとしてくれた。それは意識していないと思うけれど、それはうまくいったというのが『3月11日を生きて』という作品だと思う。

その門小保護者の方の批評は、いわゆる予告篇に対しての意見であったわけだけれども、その方は『3月11日を生きて』を観て「見事な作品です」と言って帰っていった。実は今回の作品では使っていないけれど、その方にもインタビューをしている。

——そうでしたか。私がその文章を目にしたのがつい最近のことだったので、その方は『3月11日を生きて』をご覧になったか、そしてどんな感想を抱いたのかな? と思っていたんです。

その方は石巻で開いた地元上映会にも早い時間から来て頂いて、「感服しました」と言って帰って行った。前の予告篇の時はそういう意見を持っていたけれど、証言集を観た現在はそうではない。つまり津波の映像を使わなくても映画としてきちんと成立しているということが、分かってくれたわけだから。そういう意味では、彼はきちんとした鑑賞眼を持った人だと思っている。

観た人はいろいろ意見を言いたい訳で、それは作り手としては良い意見、褒められたほうが嬉しいに決まっているけれども。良い意見もけなす意見も、無いよりはけなしてもらったほうが良いだろうということもある(笑)。

混沌としていた被災後の門中

門脇中学校
門脇小学校が間借りしている門脇中学校 (宮城県石巻市 2011年7月)

——その方の意見の中には、もう一つ指摘がありました。それは映画のテーマとして「地域と学校」を描くのであれば、小・中学生と地域の避難者が同居するという当時の門脇中学校(門中)の置かれた特殊な状況[*]にも触れるべきではないかというものでした。
しかし予告篇の中では、門中生や校内の避難者については一切触れられていません。当然それも意識されてのことだと思いますが、改めて、あえて言葉で説明するならば?

それはもう単純に、そこまでは手に負えないからということがある。たまたま同じエリアに三つの要素があるからというものにしては、それぞれの問題一つ一つが大き過ぎる。もし門中の避難所体育館に入るのだったら、その避難所だけのドキュメンタリー映画になってしまうから、それは無理だった。中途半端に入る気はなかったから、避難所にしても中には一歩も入っていない。

*)被災後の門脇中学校の状況
▶東日本大震災の後、避難所に指定されていた門中には、地域住民が被災地域から避難してきた。4月の学校再開後は、自校の校舎を門中の中学生が使い、その内3階のフロア全てを門小が間借りして授業が行われ、避難者は体育館と武道館で避難生活するという、いくつかの全く別の要素が1ヶ所に同居するという混沌とした状況になった。

小中学校共に学校行事は行えず、空いていた校庭も遠くの避難所や仮設住宅から子供たちを送迎する保護者の車が駐車していた。避難者をサポートするためのボランティアも常駐し、全国から支援物資が届き、仮設浴場も設置されていた。

こうした状態は2011年10月の避難所閉鎖まで、半年あまり続いた。

——また門小の今後についての動向が入っていない、つまり「学区が消滅すること自体が、地域の崩壊である」ことなので触れるべきだと。

それはあの予告篇の時点(2011年7月)では、そういう話は全く出ていなかったから触れていなかった。その後はそれについても撮っている。

——こうした予告篇を上映することは、好意的な意見はもちろん歓迎ですが、懐疑的・否定的な反応も出てきますよね。ある意味ではそうした反応も受け止める前提で上映したという部分もあったのですか?

いや、良いとか悪いとかの測り方ではなくて。こちらから何かを投げかけてみたら、どのような反応が出てきても全部そのまま頂戴するという感じだ。

一つはいろんなことを言ってくれれば、こっちは「頂き」みたいなこともある。例え思ってもみなかった良い意見があって内心「そうだね、面白いじゃない」と思っても、驚いたそぶりは見せないで、「そんなことは当然前から考えていたことだよ」と応えることもある(笑)。

またある意見を貰っても「それは予告では使わなかっただけで、撮影はしているよ」というのも、もちろんある。そういうふうな反応は、その後の撮影に活かしたりはしている。だから「本編が楽しみです」という声よりも、無茶苦茶な意見を言ってくれた人のほうが、こっちとしては得したということはある(苦笑)。観測気球を上げてみて、反応を見てみたような感じだ。

予告篇ではいろいろと思うところもあった門小保護者の方も、その意味ではちゃんと見てくれて信頼できる人だ。つまり予告篇では批判もしたけれど、『3月11日を生きて』に関してはきちんと作品の意図を見抜いてくれて、良い映画でしたと言ってくれた。

あの予告篇自体がいわゆる一つの作品でもないし、こんな風な映画にしたいんだというようなデモンストレーションみたいなもの。だから予告篇として作っても、予告篇通りの本編になるかどうか分からない(苦笑)。そういう意味では極めていい加減な予告篇なんだけれども(笑)。

2011年6月から撮影を始めてから最初の作品が、2012年2月に完成したこの『3月11日を生きて』になる。当初からそれが作品として形になるのは、年が明けてからになるだろうという予測があった。それならばその間に一本、石巻でこんなことをしているという意味も含めて予告篇を出そうということになった。だからある意味では、何をやってもいいわけだ。つまり言われないのは、気球を上げた甲斐がないけど、いろいろ言われたということは上げた甲斐があったということだ。

——これまでにも、今回のように長期におよぶ撮影の途中にデモンストレーション的な予告篇を作って、撮影地の地元や支援者に見せるようなことはあったのですか?

いや、これはない。だから予告篇というよりも何かうまい言い方があるんだろうけど。"予告篇"では違うし、"特報"というのも違う。何か適当な上手い言葉が未だに見つからない、出てこないんだけれど。

《続く》

#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。