阪神・淡路大震災で失われたモノ、残されたモノ、生まれたモノ…そんな記憶を記録します。

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◉しんのこレポート

2000年 鳥取西部地震における
ボランティア活動報告(3)〜10/16〜

◉ 2001年1月17日

Text & Photos by 植草康浩

初出『震災が残したもの 6』

2014.1.22  up
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鳥取県西部地震(鳥取県日野町 2000年10月)
瓦が落ちシートで屋根を覆っている、後ろには土砂崩れを起こした山が見える。
(鳥取県日野町 2000年10月)

10月16日

5時半起床し、朝の炊き出しの準備に参加する。今朝の配給も天ぷらの入ったお弁当であった。温かい汁を作って地元の方々に配りつつ、今日のニーズの吸い上げも行われる。

いくつか依頼があったので、どういう状態かを確認するために現地調査に向かう。半壊建物の壁の修理や取り壊し、石垣の崩れそうな所の補修など。

この地区の自治会長が、こそこそと事務所へやってきて小さな声で申し訳なさそうに家のタンスの移動を願い出た。彼は被災した自分のお宅はこの地区の一番後でいいと言って、ずっとボランティアの手が家に入っていなかった。その場にいた何人かでやっといくつか仕事をさせていただいた。自治会長の家の様子は悲惨で、天井から軒並み梁が落ちて来ていた。すぐにどうにかなるという状態ではなかったので、また後ほど何人かのボランティアで家に入るように決めた。

その後、集まり始めた当日のボランティアに対するコーディネートの仕事をしながら、建築ボランティアに彼らが今まで入った他の地区の話を聞く。

ひとり暮しの老人たち

今日も玻璃がやってきた。朝ご飯を食べさせてから、一緒に独居老人のお宅へ伺う事にする。

昨日から日野町に来ていた大阪の整体師のボランティアが、昨晩避難所で整体を40人ほどやってから仕事がないと言って別の仕事をしていた。行きがけに彼の所へ寄って、一緒に回ってもらう事にした。

最初に訪れたお宅は、地震の被害もそれほど大した事なく、地震当日に駆けつけてくれた家族たち(名古屋、大阪、神戸在住)が、全て修復してくれたそうだ。おかげで今は畑仕事にも出られて元気なようだった。

次に訪れた老婦人の方は、今年の5月に腰を圧迫骨折して2ヶ月ほど入院していた。玄関から声をかけても返事がない。奥からかすかに声が聞こえてくるので、中まで入って行ったらベッドにほとんど寝たきりになっていた。食事準備、掃除、入浴介助はヘルパーさんがやってくれているらしいが、いつも来てくれるわけではないのでひとりの時の事を心配していた。最近はなんとか杖をもってヘルパーさんと家の近くを歩く事もあると楽しそうに話していた。

僕の膝の上にいる玻璃の事を「何で一緒にいるの」と聞くので、この子も僕と同じボランティアなんですよと言うととても感心していた。そういった話をしていた間にも、近所の方が配給の食事と炊き出しの汁を持ってこられた。近所の方々も心配しているようだった。

目下の悩みは、神戸に住み毎週末に訪ねてくれる息子さんが、心配して神戸に呼び寄せようとしている事。これも阪神・淡路大震災の時によく聞いた話だった。高齢者は周りの環境が変わると、とてもストレスがかかる。子供たちが心配してそばにと思う気持ちと、高齢者の新しい町での生活とはえてして相容れない事がある。

鳥取県西部地震(鳥取県日野町 2000年10月)
村の惨事を知らないかのようにコスモスが咲き乱れる。(鳥取県日野町 2000年10月)

次に訪れたお宅は、昨日の夜、事務所の前でひとりでいるのが怖いと訴えていたおばあさんである。6日に地震が起きてから、気丈にもひとりで頑張っていたが、13日、持病の狭心症の発作がおこり、救急で病院に担ぎ込まれた。娘さんが婦長をしている病院に入院していたが、昨日みんなでお墓を直すと聞いて、居ても立ってもいられなくなって、たった1日で病院を出てきてしまった。病院からは一時帰宅にしろと言われたらしいが、無理やり退院してきたようだった。

左膝の関節に時々水が溜まり、痛む事があるというので、同行していた整体師ボランティアに診てもらう事にした。普段は草むしりをしたり、お墓を巡って散歩しながら1日を過ごしていた。地震後に取材に訪れた新聞記者が取材のお礼にと置いていった花がきれいに玄関に飾ってあった。嬉しくてお礼を言いたいが、名前がわからず困っているとの事で、こちらで調べて連絡する事になった(その後うまく見つかり連絡出来たようだ)。

夕方になったので事務所に戻り、明日帰る旨を伝えるため、関係者にご挨拶に回った。短い間の参加でかえって御迷惑かとも思っていたが、元気村の副代表から「この時期に来てくれて助かった」と言われてほっとした。元気村自体も、移動しながらまた必要であれば鳥取に戻って来るとの事であった。

玻璃ともしっかりさよならをした。彼女はまだ当分日野町にいるので、明日からきっと寂しい思いをするだろうから、逆にきちんと伝えてわからせておいたほうがいいというアドバイスによった。

今回の救援活動で地震などの災害の時に、本当に人間の命を救うのは普段からの顔の見える一対一の人間関係である事を再度痛感した。さらに、今一度、阪神・淡路大震災で学んだ事を各人のフィルターを通して、自分の住んでいる地元で反映させていくという日々の基本を改めて思い出させられた。

[了]

◉初出誌
『震災が残したもの 6』(A-yan Tokyo、2001年)
#文中に登場する名称・データ等は、初出当時の情況に基づいています。

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Text  植草康浩

▷A-yan Tokyo。阪神・淡路大震災を皮切りに各地の災害被災地でボランティア活動に参加。
この鳥取県西部地震の発生当時は大阪在住。

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